独立行政法人福祉医療機構「長寿・子育て・障害者基金」助成事業
近年、医学や医療は年々進歩を遂げ、再生医療などの可能性も注目されるようになってきました。しかし今現在、病気や外傷に伴う「機能障害」を最小限にする努力がなされたとしても、残念ながら障害を認めた方全員に対して、障害がない状態に治すことは不可能です。
では障害が残る方に対して、新しい人生を築くためには、どのようなことが必要となるのでしょうか?そして社会に何が求められるのでしょうか?ここでは中途障害者に対する支援の現状と課題について考えてみます。
中途障害とは、ある時期まで正常であった機能が何らかの原因によってその機能が低下や喪失することにより生じる障害であり、その障害のされ方も突然起こるものから徐々に低下するものまであります。そして今まで出来ていたことができなくなることで、様々な問題が生じてきます。
障害の階級を追うことで、その障害がどのような問題につながるかが容易に考えることができます。そしてその問題を解決する方法は、障害が無くなるということだけでなく、その障害を持ちながらも、残された能力や環境でどう対応するかがポイントとなります。
人はできなくなったことを認めるのをとても苦手とします。喪失感というのを実感し、自分のこととして受け入れる作業には、その現実を直視し、理解し、そして自分がその中でどのような生き方をするかを考える作業が重要となります。「いつか良くなるだろう」とか、「良くなった人がいると聞いた」とか、「自分に限っては良くなるに決まっている」といった気持ちがある限り、障害の受容は困難となり、いつまでも社会的な役割が持てず、リハビリ人生をたどってしまうことになります。そして病人であることは、たとえ社会的な役割が無くても許される状況だと考えることで、障害受容を先延ばしにしてしまうこともあるかもしれません。
家族の一員が障害者となった時、かなり多くの家庭では、それぞれの役割が変わってしまいます。それは経済的な基盤の変化だけでなく、それぞれへの依存や期待などにも関係してきます。たとえば、経済的だけでなく、社会的な面で依存度が高かった夫が障害を持ち、逆に依存される存在となる妻にとっては、大きな立場の逆転・役割の変化を受け入れるのに時間が必要となりますし、その過程で治ってくれることを常に願うことでしょう。将来を期待していた子供が障害者となれば、その親にとっては、子供が障害とともに生きていく人生など想像も付かないでしょう。
社会的には、医療現場もリハビリを実施する際の日数制限や対応の限界についての知識が広がっています。しかし医療現場でなければ(機能障害を治すための)リハができないと考えている人が多く、自分たちだけは特別な状況であり、長くリハが受けられるようにと願う人も増えています。
では病院の次のステップはどこにあるのでしょうか?それは残念ながら地図はあるかもしれませんが、求めない限り誰も教えてくれません。そしてその地図からは近道も王道も見えてきませんし、たどり着く先が確実に求めていたところかもわかりません。ただそのために手帳や各種制度が求められますが、その申請は自らの足を使うことが求められます。
前述したように、障害の中にはまだまだレールがなく、時には獣道を自ら開拓し、歩まなければならないこともあります。この障害にはこの制度とこのサービスをこのように導入し、経済的にはこういう制度を導入すればよい…といったマニュアルがない障害もまだまだあります。
既存の制度は、多くはある特定の疾患や障害を前提に作成された経緯があり、新たに認定される障害にあわない場合もあります。しかし現状では新たに障害が認定されても、それにあった新たな制度が生まれてくる可能性は乏しく、既存の制度を拡大解釈しながら利用するしかありません。そして残念ながら、そのような利用では障害の特性にあったサービスが利用しにくく、しばしば問題となります。
高次脳機能障害という2004年に行政的な定義が出された障害に対する支援は、既存の身体・精神・療育の手帳の狭間に置かれることが多く、精神保健福祉手帳を取得することで、何らかのサービスを利用しようとしても、手帳を取ることへの抵抗感、使える施設の理解や受け入れ態勢の問題などから、有効利用できていないこともしばしば認めます。
新たな障害に対しては、もし適切な制度がなければ、今後どのような制度が必要となるかを検討し、訴えていく必要があると考えます。
障害を受け入れるのは、障害者とその家族だけの問題ではなく、障害をもった方が生活する社会全体が理解をしなければなりません。しかし日本社会は障害者に対して特別扱いをする傾向があり、普段障害者と接する事が少ない状況では、その人たちを理解しようと考えても、困難となると考えます。
今後教育、就労場面を含め、障害者とともに生活できる場が広がり、双方に理解していくことが必要となります。ただ、中途障害者は健常者としての立場と障害者としての立場の両方を経験していることで、健常者として生活していたときに障害者に対する見方が厳しいと、障害を受け入れることや、障害者として見られることに抵抗が生じます。自分がいつ障害者になるかわからない状況で、障害者としても立派に生きていける社会構造を作ることの大切さを、健常者であっても意識しなければならないと考えます。
障害があるにもかかわらず、その障害が知られていないことで、当事者も家族もそして関係する方々も「障害」としての意識が乏しいことで、かえって誤解を受け、生活を困難にしている方々がいます。目に見えない障害といわれる高次脳機能障害などはその代表といえると思います。そのような方々が地域でよりよい状況で生活するには、その障害を見落とさないことが重要となります。
では障害があるといわれた場合、次のステップをどう進めばよいのか?もしそれが判らない場合には、その案内を担う適切な窓口が必要となります。相談できる人がいて、気軽に相談が受けられ、役割が持てる場に出向き、そこでの生活をしっかりこなすことが、社会参加に向けての大切なステップになります。
障害者は、単に制度的な問題や就労場面でのハンディだけではなく、地域生活の中で様々な点で弱者となりうる存在です。高次脳機能障害者が問題となる点として、社会的交流が不良なことから生じる詐欺などのトラブルに巻き込まれることがあります。身体障害や認知の問題があれば、災害弱者としての問題を生じる可能性があります。
個人情報保護やプライバシーの尊重といった風潮から、制度的に簡単には救済を求めることは困難ですが、近所付き合いといったコミュニティーの場を含め、安心して相談できる人や見守ってくれる人を身近に持つことは、障害者が生活していく上で何よりの安心となることでしょう。そういう社会は、健常者にとっても信頼し生活しやすい場となると考えます。
障害を持ちながらも、新しい人生を切り開くためには、その人がいかに自立した形で社会的な役割を得るかということになると思います。「障害があるから○○ができない」というのは誰でも言えることですが、「障害があっても○○ができる」ということができるかがポイントだと思います。そのためには開き直りの気持ち、過去にこだわり過ぎないこと、そして使えるものは何でも使おうといった貪欲さも必要だと考えます。
言葉にすれば簡単なことですが、気持ちを切り替えて実行するには、かなりの勇気と努力を必要とします。それを支えるのが、家族であり、地域であり、社会であると考えます。