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最終更新日:2008年3月31日

基調講演 講演録

聖隷三方原病院のリハビリテーション科の片桐と申します。皆さんこんにちは。

今回基調講演ということで依頼を受けたのですが、あまり貴重なお話しはできないかもしれないですけれども、少し私自身障害者、いろんなお体の不自由な方を対象とした医療、リハビリテーション医療というのに携わってもう10年以上たっているんですけれども、その中で感じてきた事、そしてこれからどういう風にして行けば良いんだろうかということも含めて、これからの皆さんのこの後の発表も含めて、何か参考になればというようなことを少しご紹介させていただきたいと思います。

現代医学の可能性と限界

現在、医療医学というのは年々進歩しております。昔はとにかく命を救うということが最優先されてきました。なんとか、重い病気になっても命だけは救おうということで、日夜医学が関わってきたんですけれども、それがある程度達成されてくると次はできるだけ機能予防、たとえば機能の損傷といって、障害をできるだけ最小限にしようという努力が進むようになってきました。たとえば手術をするにしても昔は非常に大きくおなかを開いたのが、今は内視鏡を使って小さい傷で、たとえば1週間2週間入院しなきゃいけないのが3日ぐらいで社会復帰できるというような形で、なるべく最小限にしてこうということが進んできました。

そしてもう一つ最近の話題は、機能の改善、いわゆる失われた機能をもう1回再生させようという動きが出ています。朝日新聞でも特集で載っていましたけれども、いわゆる万能細胞といわれるものが最近注目を集めています。体のある細胞を増殖させることで、今まで失ってきたいろんな内臓の機能とかを補っていこうというようなことが、今基礎研究からだんだん臨床応用に近づいてきているという状況にあります。

当然のことながらそういった状況の中でいろんな可能性が出てきました。救命率が上がって、だけれども救命ということが元の体ではない状況で、確かにこれは障害が残ってしまうということはあります。これに関しても、できる限り何か再生医療を含めてできないかと試行錯誤しています。しかしながらまだまだ、たとえば進行性の疾患ということに関しても進行を止めるということが十分できてないのが現状です。たとえばアルツハイマー病は認知症が徐々に進行してく病気、これもアリセプトというお薬ができて少し進行を緩やかにさせることはできるかもしれないけれども、進行を全く止めるという所にはまだ至っていないんですね。どんなに医療医学が進歩していってもやはり1度傷ついた臓器っていうのがほんとに元通りになるというのはまだ現状少なくともここ数年の中でも困難であろうと。どんなに再生医療が進歩しても全て元通りになるということはやっぱり困難だろうと。たとえば脳細胞を移植できるといっても人間が成長する過程で得てきた経験とか知識とかというものが再生することは現実難しいわけですね。それで結果として何らかの障害はやっぱり残存していくということがあるわけです。

そうすると、障害に対する病院ということがまず一番最初に関わる機関だと思うんですけども、ここで役割がなんだろうかという風に考えた時に、実際には病院完結型というのが昔ある意味、理想型とされてきたわけです。病気になってもそこでなんとか治療して良くなって家に帰るということを目指していたんですけれども、だんだんそれが病院では完結できない地域完結型への移行というのが進んできている状況にあります。これはどういう事かというと、一つはやはり病気自身が完全に直るということがないというところがあるんですけれども、もう一つは医療制度というものがだいぶ変わってきています。医療保険の締め付けということで、病院はもう急性期特化にしようと。入院してきてから2週間から1ヶ月ぐらいの間にとにかくある程度めどを付けて治療しよう。その中でリハビリテーションというのはどういう風に関わるかというと、病院でできるリハビリテーションというのも実は算定日数の制限というのがかなり明確になってきました。そうするとやはり病院で治療を完結する、障害の克服をするということはもう困難になってきているんです。たとえば、来年度、診療報酬が改定されます。昔はどれだけの期間やっても訓練1単位あたりに250点とか点数がもらえていたのが、今はある期間、算定上限という日数の制限が出てきているんですね。それを超えてしまうと1ヶ月あたりそんなに自由に訓練ができるというわけじゃなくて、ある程度単位数を制限させてしまうと。こういうことで実は医療費を削減しようという厚生労働省の思惑があるんですけれども、そうしてくると結局病院という枠の中で、たとえば回復期リハビリテーション病棟というのがあっても実際に訓練ができる期間というのはもう1年とかという期間は無理なんですね。半年がせいぜい、疾患によっては3ヶ月でもう打ち止めになってしまうという状況が出てきます。

そうすると病院を退院しても、もしくは病院の医療が打ち切られても次どうしていくんだろうかと。残った障害とどう向き合っていくか、そのためにどういったことが必要かということが出てきます。ですからそれを考える上では今回、中途障害の特徴というのを少し理解しておく、そして中途障害者が取り巻く環境というのを理解する。その中で、やはり社会が、どういう風な受け皿も含めてですけれども、あるんだろうか、その中でいったい我々にこれから支援してく上では何が必要なんだろうか、ということが今回のお話しの中で少し見えてくると良いかなという風に考えております。

中途障害者の特徴

ということでここからが本題になると思いますけれども、中途障害者の特徴っていったいなんだろうと。たとえば昔は、リハビリテーションの領域でICIDHという考え方があったんですね。機能障害、能力低下、社会的不利という視点から、いろんな状況を評価するということが行われてきました。失われた機能と残された能力の中でどういう風に対応するかということを考えなきゃいけないんですけれども、その過程の中で一つ問題になるのは実は障害受容という過程になってきます。

できなくなるということを受け入れるというのは我々でもなかなかそう簡単にはできないですね。私たちも年齢を重ねるにつれて、いろいろできないことが増えてきます。私も若い頃はこれでも逆上がりとかいろいろできたんですけれども、今やれって言われてほんとにできるだろうかと。まだできるつもりではいるんですけれども、実際やってみたら多分できないかもしれない。でもそういった自分、たとえば老いていくということだけでも受け入れるのが辛いのに、急に自分のいろんな今までできていた事ができなくなったってことは、やはりそう簡単に受け入れることはできないのかなと思います。

そういう状況の中でこれから生活していく家庭の中それから社会で、いろんな意味での役割が変化してきます。役割を失われた時の喪失感というのもかなり大きな問題として出てくるでしょう。生き甲斐を持って生きてきた今までの人生を変えなきゃいけない。役割とか地位とか名誉とかいろんなものが変わってきてしまう。じゃあそれに対してその人の人格を含めていろんなものが、社会がバックアップしてくれれば良いんだけれども、実際にたとえば経済的な側面でもそうですけれども、社会保障制度の限界というのが今の日本にあるわけです。

実際に、リハビリテーションの考え方というのは、発症して落ちてきた機能に対してできるだけ機能を上げたり日常生活の動作の訓練をして、ある程度の水準まで上げる努力はします。でもそれ以上上がらない時にどうするかといえば、逆に環境をその人の水準に合わせてしまえというような措置を執るわけですね。

いわゆるバリアフリー化ということを行います。たとえば、福祉機器を導入するとかサービスを導入するとかご家族の方に介護指導をするとかということで、その状況で生活できる能力を維持しつつ、機能の維持とか向上をはかっていくというのが通常私たちがやっているリハビリテーションの手法になります。その中でやはり、機能的な問題というのが上げられればそれが一番良いんだけれども、それだけじゃなくてADLいわゆる日常生活動作という能力を向上させるということがどうしても必要になってきます。

先ほど出てきた機能障害、能力低下、社会的不利というこの三つの事に関してですけれども、機能障害というのは何かというと心理的生理的解剖学的な構造または機能の何らかの喪失または異常を来した状態という風に考えています。別に、手が動かないといっても、手がもしも切断して無い人だって使えないわけですし、手が有るんだけれども神経が働かないがために動かない人もいるでしょうし、それからたとえば心理的な要因の中で手を動かすとことがうまくできないという方も、こういった機能の障害と形でとらえることができます。

では能力低下とは何かと。能力低下というのは、活動を人間にとって正常と考えられるやり方または範囲において行う能力の何らかの制限または欠如というような定義があります。これはどういう事かというと、機能障害の結果に起こったというのが括弧付きになるんですけれども、人間というのは生きてく上で、いろんな活動をしています。当然朝起きて歯を磨いたりとか顔を洗ったり食事を食べたり、そういった活動というものに対して通常、我々の手や足や体いろんなものを使ってやる。目もそうですけれども、そういったものが失われたことによって、いわゆる通常こういった手段を使うだろうと思われる、そういった手段がうまく使えないことによって起こった問題ということを能力の低下という風に定義しています。ただ逆にいうと、残っている機能でうまく使うことができればたとえ機能が失われても能力の低下は来さない可能性もあるわけですね。右手が使えなくなった、じゃあ字が書けないというのは簡単ですけども、左手を使って字を書けば、機能障害はあるけれども能力の低下という意味では少し救われる部分もあるという発想が出てくるわけです。

そして次に社会的不利ということが出てきます。機能障害あるいは能力低下の結果として個人に生じた不利益であってその個人にとって、年齢とか性別とか社会文化的なその因子を見て正常な役割を果たすことを制限あるいは妨げることと。ここでいわゆる役割ということが出てくるわけです。

失われた能力、残された役割

こういった中で、やっぱり人間は生きてくためには、自分が生きているという価値も含めていろんな役割というのがすごく自覚することが重要になってくるんだけども、そういったことが不利益になってしまうと、こういったいわゆるハンディーキャップと言われるような状況として、定義されてしまうわけですね。だから失われた能力、残された役割と題名をつけたんです。たとえば先ほどお話ししたように、右手が麻痺してしまった、じゃあ字が書けません、字が書けなかったら復職ができませんと言ってしまうのはすごく簡単な話なんですね。だったらそれについてどうすれば良いかと言えば、一つは麻痺が改善すればこれは全て解決しますね。麻痺が改善すれば字も書けるようになるし復職もできると。でも麻痺が改善しなかったらもうこの先がだめなのかというと、麻痺が改善しなくても書字ができたら復職は可能だという発想も出てくるわけです。じゃあどうやって書こうかという話になるわけですけれども、先ほどもお話ししたように残された他の能力は使えないだろうかと。たとえば握ることができないんだったらそれを把持するような自助具と言われるような物を使って書くことができないだろうかとか、それでも難しいんであれば左手を使って書くことができないだろうかということを試みるわけですね。そして書字ができなくても書字を必要としない職場であれば復職はできるんじゃないかという極端な発想まで出てくるわけです。要は能力として他の能力がもし残っていたら、たとえばワープロが打てるとか、他の能力を使うことで復職はできるんだと。それも一つの手ではないかということで、リハビリテーションというのは基本的な発想としては、障害が残っているから何々ができないということではなくて障害が残存していてもまるまるができるというような発想の転換とのが常に求められるし、それがやはり社会参加する上で当事者がやっぱり考えなければいけないポイントだと思います。

残存した能力を活用するためということで、当然残存している能力を見いだすことが大事です。できない事というのはすごく目がいくんですね。人間というのは不思議な事に、たとえば、人を見て一目惚れをした場合は別ですけれども、そうでなければ普通はどっちかというとやっぱり欠点の方が目につきやすいという部分があります。良い所を探そうとすると探そうという努力をしないとなかなか見つからないかもしれないです。この中で結婚されている方とかですね、最初は良い所ばっかり見えたけれどもだんだん結婚が長くなってくると悪い所ばっかり目がついてしまうと。でもその中で結婚を維持するにはどうすれば良いかといったら、その人の良い所を努力して探さなきゃいけないわけですね。それと同じで、やはりその人の持っている良い所を探すという努力、見つけるという努力は必要になります。しかもその見つけたものをしっかり磨くということもしないと、やはりこれは片手落ちになってしまうと。

ただ残存している障害にこだわらないと、今度はできる能力ではなくて障害自身にこだわってしまうとどうしてもそこから離れられなくなってしまう。ですから、障害を受け入れるということがどうしても必要になってくるわけです。ただそれは開き直りなのかそれともなんなのかという問題が出てきます。我々ですね、日本人というか通常、障害受容という言葉をよく使います。でもたとえば外国、英語圏とかですと、こういった受容という言葉だけを使うわけじゃなくて、たとえば調整という言葉、アジャストメントという調整という言葉を使ったりとか、適応というアダプテーションとかですね、アクセプタンスというのが受容という意味として強いんですけども、レスポンスとかリアクションとかいろんな言葉を実は使っているんですね。やはり障害をそうやって受け入れるというか、認めていくという過程の中で、実際には受容という単純な言葉だけではなくてもっと幅広いいろんな問題が見ていかなきゃいけないんじゃないかというのが考えられます。

障害を受け入れるということ

実際に障害を受けてしまうとそれを受け入れる過程というのがいくつかあります。たとえば、死の受容ということになるとキュープラロッサーという人が出している本とかにも書いてありますけど、障害の受容も、やはり最初ショックがあって回復への期待をしつつ悲哀の中で混乱しながらでも適応への努力をして、最終的に適応に持っていくというような過程があって、その中でやっぱり否認したり怒りがあったりとか取引したりとか同意したりとかという風な心理的な過程が入ってくるんです。障害の受容というのは確かにいろんな意味で障害を理解するという意味では非常に重要なんですけれども、その中で、社会に受け入れてもらうとか価値の変容を計るとか変化を図るとかという風な意味がありまして、全ての人がやっぱり障害受容できるわけじゃないんですね。当然のことながら病識という問題がはっきりしなければ障害の受容はできないですし、それから病前の性格でどうしてもそういった事に関して殻を開けないという人もいますし、社会的な役割の中でそういった許容ができない人も中にいるでしょう。となると障害の受容が全ての人に必要なのかという問題が出てくるわけですね。

これについては正直言っていろんな賛否両論があります。まだおそらくいろんな分野の中で障害受容に関して持っていかなきゃいけないとか、こうしなきゃいけないというはっきりしたものがないんですね。ただ一つ言えるのは、我々はできるだけやはり障害を理解してもらう、受け入れてもらうことで第2の人生をよりよく送ってもらいたい、それは自分たちが経験してきたそれこそ何百人という患者さんの経過を追っていく中でそうするのが良いだろうということが判断されているからです。でも当事者にとってはそれが初めてのことですし、そういった過程を踏むということがほんとにその人の価値観にあるかどうかというのはぜんぜんわかんないんですね。ですから障害の受容というものに対してここではあんまり強くいうつもりはないです。ただいろんな事を理解することは重要という風に考えております。

高次機能障害の場合

さて障害の受容ということになるとですね、今私がある程度多く扱っているというか、対応している高次脳機能障害というのは実はこの障害の受容が非常に大変な障害なんですね。なぜかというと、目に見えない障害といういわれ方をしています。いわゆる障害が顕在化されにくい、表面に出にくいわけですね。普通に町を歩いてればこの人が障害なんていう風にぜんぜんわかんない。そういったのがあります。これは後でちょっと説明します。そして本人の病識、自分がそういった障害を持っているんだってことをしっかり認識しているということがちょっとやっぱり低下してしまう。たとえば記憶障害というのがあっても記憶障害の人は自分が記憶障害であるってことすら記憶ができない。なんかちょっとすごいパラドクスみたいなんですけどね。だから自分が忘れっぽいという事が自覚できれば良いんだけれども、実際にそれすら忘れてしまうという方も中にはいるわけです。そして障害が有るということが実際に社会的な認定とか保証につながらないという現状があります。これはたぶん後から脳外傷友の会の植田さんからもお話しがあると思うんですけれども、実際に障害は有るんだけれども社会的に認められないというのはこれから先それを持って生きていく上で非常に大きな壁になってくることは確かです。

たとえばですね、よく片麻痺の方、身体障害の方と高次脳機能障害の方を単純に比較してしまうと症状が分かりやすいか分かりにくいか、それからリハビリも実際には未確立な部分もあるし、障害の認定ということでなかなかうまく行かない。そして、地域支援というのが実際にはですね、たとえば身体障害、特にある程度中年から高齢者にかけて起こるような脳血管障害に伴う片麻痺とかであれば、多くの施設とかで対応ができます。けれども、若年に多い高次脳機能障害はそうはやっぱりいかないんですね。入れる施設も少ないし対応できる所も少ないという状況が出てきます。目に見える障害と目に見えない障害の違いというのはけっこう大きいんですね。実際に目に見えない障害といわれる由縁というのは、対人関係を必要とするような社会参加場面でけっこう問題が顕在化されることが多いんですね。しかもある特定の環境とか刺激に対して問題が起こるという特徴があります。たとえばスピードが要求されるような場面とか臨機応変さが求められるような場面とか同時にいくつかの事をこなさなきゃいけないような場面とか不快な刺激が入ってくる時とかですね、そういった時に症状がぱっと出てくることがあります。でもそうでなければほんとに普通の方と同じような生活ができるわけです。そしていろんな要因で、たとえばスケジュールに沿って行動ができないという風な障害像があったとしても、それがいったいどういう問題、記憶が悪くてできないのか見当識が悪いのか、それとも注意力が落ちているのか、順序立てて物事を行動する遂行機能というのは障害されているのか、それはいろんなその専門家でないとこういった分析ができないというようなことで、ほんとに障害像というのは個々に異なる、ほんとにとらえにくい、100人高次脳機能障害者がいれば100人とも違う障害が出てしまう。実際の所は障害を見落とされてしまったりとか、障害像をとらえることが難しかったりとか、日常生活はできるんだけれど社会参加場面がうまく行かない。そして診断基準とか障害像というのが医療従事者にも十分普及していない。利用可能な制度とかが限られて制度の狭間に置かれてしまうといった問題が出てきます。

そういった問題の時に、障害者はどういう風に感じるかといわゆる障害受容の話ですけれども、受傷前の生活の社会生活の能力とかイメージというのが、発症に伴って非常に縮小してしまうわけです。いわゆる活動制限というのが、注意力とか発動性、やる気とか記憶とかいろんな事によって低下してしまって対処能力が落ちてしまう。そうするとやはり社会参加する上で思うようにいろんな行動ができないとか、人との関係がうまく行かない、いらいらとか不安状態になりやすいとかということが出てくるわけですね。結局そういった中で萎縮してしまってなかなか自分を思うように出さないような状況になってしまうと。その人が障害を持ちながら地域で生活するというのはなかなか難しくなってしまうと。だったらどうするかと。

確かに小さくなったものをある程度その前の状態に近く持っていくような、大きくする作業は必要なわけです。そのためには何かというと、一つは適切な評価をすること、そして適応力を向上させご本人を支えてくれる家族への対応、それから周囲の理解とサポート、継続的な支援者の存在、こういったものが加わることによって社会的な活動がもう1回再獲得することができて、自分らしさの再獲得とか家庭生活の安定、社会生活の安定がはかれるんじゃないかという風にいわれています。ただまあ考えてみたらこれって高次脳機能障害者の方だけではないですよね。どの障害でもやはり適切に評価を受け、その適応能力を向上させることを進めて家族や周囲のサポート、そして支援してくれる人がいる、というのが障害を持った状況で社会的な活動をする上では必須なんではないかという風に考えます。

家族の存在・ケアする人のケア

さてそうするとですね、そのサポートの中で大切なのは家族という存在が出てくるわけです。家族、この方々が実際に障害を受け入れるという作業もかなり難しいんですね。家族の障害受容というのも実は高次脳機能障害の場合には少し特徴的な流れがあります。と言いますのは、最初はですね命が助かったということですごく救命されたことに対する喜びが出てくるんですね。とにかく一番最初はもう重傷で意識が無い状態でなんとか呼吸しているぐらいの方が、とにかく命だけは救ってくれという思いがあるんですね。救命された事の喜びが高いですね。つきあっていくうちにだんだんおかしい事への気づきが出てくると。でもそれというのは努力しても改善されない、病院に入院していても良くならない、家に帰っても改善しない。そういったいらだちが出てきて障害の現実化と受け入れの苦しみを味わって、ある意味希望を放棄してしまうという過程の中で、生活の再構成というのが組み込まれるというような経路をたどるというようなことがよくあります。非常にこれは難しいんですけれども、1回どん底まで落ちてその中で生活を組み立てるという風なことがけっこう多いんですね。ですから家族に対してどういう風にケアするかということで、アメリカなんかでは当事者が家族をいたわる、自分がこうやって生きている、こうやって高次脳機能障害を持っていてもこうやって生きていけるのは家族のおかげなんだよ、ということを常に意識させるわけです。そして、家族に感謝の気持ちを言葉とか態度とかで伝えるということをまず習得させるんですね。そうすると家族と本人との関係というのを、今後維持する上で非常に重要なサポートしていく要因になっていくわけです。なかなか人に感謝を伝えるというのは日本人あまり得意ではないですよね。結婚していてもたぶん、旦那さんや奥さんに愛してるとか好きですよとかというのってけっこう照れくさかったりとか恥ずかしいとかってあるじゃないですか。おそらく障害を持っている人もそういったのはあると思うんですね。でもやっぱり言葉にする。それからそういった事をやっぱり態度でしっかり示すということは、実際にはすごく重要なことではないかと思います。

今の話を段階で見ていくと、ショックがあって期待しながら現実としてはやはりうまく行かなくて悲嘆をしながら調整してという風なことですね。経路をたどっていくというのは、これはアメリカの報告でも同じような形で1回最後まで落ちきった上で上がっていくというのがポイントになってくるわけです。

家族自身の苦悩は何かといったら、やはり介護負担が生じるということがまず最初あげられます。そして家庭内での役割の変化が生じて将来に対する不安がどんどんどんどん増強してくと。そういったことで、家族の負担がより増えていきながら障害を持った事実を受け入れないと先に進まないのかということが出てきて、社会はその障害とその家族を支援するシステムが確立していないというのが、今の現状としてあるわけです。実際に多くの人が、経済的な不安から心身の疲労、回復の方法はないだろうかとか、大黒柱の方がそういう風になってしまうと、今までそういう風に頼り切っていた奥さんというのはほんとに苦労するわけです。

ですからそういった意味での人生設計、今まで人生設計していたものが全て崩壊してしまうという状況の中で、障害を受け入れていくという作業に、これはほんとにそれができるんだろうかということはけっこうしばしば経験します。ですからこの問題に関して私が一つ提言したいのはケアをする人のためのケアの必要性ということです。まさに家族会の存在がそういったことにつながるんじゃないかと思います。

障害者の家族の苦悩というのは障害受容が困難であるということだけではなくて、地域とか社会から孤立してしまうとかですね、希望が持てない、支えが無い、こういった問題で常に追い詰められた存在になりやすいんですね。ですからそういった方々に対して理解有る人が適切な時に介入するということで救われることがあるということに対して、広く理解者を増やすということが重要になってきます。その理解者の一つはやはりピアカウンセリングという、いわゆるピア、仲間ですね仲間のカウンセリング、同じような悩みとか苦しみを持った方が関わることで行く部分というのがあるんじゃないかと思います。

障害とともに生きていくことは

さて障害と共に生きてくということですね、受容ばかりに目がいってしまうと本人の負担、家族の負担非常に多くなります。障害を持ち、苦しんでいる状況に加えて、受け入れるという作業を同時に行うということはこれはなかなか難しいですし、障害受容できないことが悪い事としてかえって攻められてしまうことも本人にとって負担になります。ですから障害とともに生きていくには、やはり受容という事が必須なのかどうかというところと、受容しない状況で生きていくことは困難なのかということも、合わせて考えていく必要があるわけですね。

ところが今の社会というのは、残念ながら障害者と名乗り出て自分は障害者なんだよと言って専門機関とか専門医師による評価とかを受けて基準に合った障害が有ると判断されて初めて、障害者として認めてもらえるという状況があるわけですね。だから、自ら障害者と宣言しない限りなかなか障害者として扱ってもらえないという状況があるわけです。ある病気になったとたん、もう自然に手帳ができて認定されてなんてことはないわけです。自分で障害福祉課に行って顔写真撮ってとか、そういったことをして申請していかないと、実際に今の日本というのは障害者として認めてもらえない現実があります。

手帳として身体障害者福祉法、知的障害者福祉法、精神保健福祉法というのでそれぞれ、だいたい身障者は320万人ぐらい、それから精神障害者は220万人、知的障害者は42万人いるという風に言われています。でもこれ三つのほんとに障害だけで全部の障害が入るのかと言われるとなかなか難しい。実際にその中に該当になるような人があっても実際に手帳を欲しがらない人だっているでしょうし、高次脳機能障害のようにちょうど中途半端な障害であると、またそれも浮いてしまうとかということになるわけですね。しかも障害があっても社会参加はどうでも良い、日常生活に不便がある人じゃないとなかなか手帳ってくれないんですね。

ですからそういった意味でも、こういった現状というのがほんとに今の日本で障害者に優しいのかと言われると、障害者とその家族となるのは初めての経験でどこに相談すれば良いのか情報を集めれば良いのか誰も教えてくれない状況の中で、試行錯誤していろんな制度を使おうと努力するんだけれども、制度を利用する場合も平等の原則に基づいて、障害像を表面的にしか判断してくれない。その人が置かれている社会的な背景とかとそういったものはぜんぜん評価されないわけですね。たとえ制度を利用しても対処的なものに限られてしまう。包括的にほんとうに将来その人がどうなるかということも合わせて考えてくれている制度というのが有るんだろうかというと、なかなか無いだろうと。

実際に病院を退院してそれから家に帰って、その中からいろんな制度を利用しようと、もちろん病院からのいろんな制度、たとえばサービスを導入する、支援者に関わってもらう、施設を探す、そういったことをいろんな制度の中で扱うとしても、実際にはこういう線がもしかするといろんなところに張りめぐらされているのかもしれない。ですけれども、その制度の利用サービスがどこにあるのかと。ほんとに点線はあるんだけれどもほんとに実線になる事がどこにあるのかということが、実は誰もなかなか教えてくれないし実際のところそれを全部理解している人なんていうのはそんなにいるわけではないでしょう。だとすると、せっかくいろんな制度がもしかすると有るかもしれない、いろんな利用できるサービスや施設や支援者がいるかもしれない、だけれども、それが分からないまま、誰かがある程度そういったコーディネートしてくれれば良いんだけれども、そうでない状況の中では、いくらもしこういったのがもし地域に有ったとしても、うまく利用できてないのが現状としてあるのではないのかと思います。

ですので、ちょっと改めてリハビリテーションというのを考える時に、先ほどお話しした障害という事だけでなくて障害者の生活、社会的統合を促すために全体としての環境や社会に手を加えることが重要なんですよと。それは障害者自身、家族、彼らの住んでいる地域社会がリハビリテーションに関係するサービスの計画実行に関わらなければならないということをWHOが言っている定義ですし、地域のリハビリテーションというのは障害の有る人々自身、その家族、そして地域住民さらに個々の保健、医療、教育、職業、社会サービスなどが一体となって努力する中で履行されるというようなことがもう定義として出ているわけです。ですからそういう中で、どういう風にこれからサービスの利用を含めて進めてくかというのがポイントになってくると思います。やはり究極の目的は、社会的な参加という中で、できることならばしっかりした役割を持つということが求められます。だとすると、普通、生産年齢と言われるような方々にとっての目標はやはり復職という事になるんじゃないかと思います。

復職するために

今回社会復帰の支援ということで、テーマが出ているんですけれども、じゃあ障害者が復職するためにはどういった問題をどういう風に考えれば良いかということをちょっと最後の方に少しお話しさせていただきます。

障害者が職業生活を維持するためにはどうすれば良いかというと、やはり雇用とか就労に関わる制度的環境の条件がしっかり整っていて、そして地域社会の中での生活支援環境条件が整っているということがポイントになります。とにかく地域で生活してその中で就労に持っていくということを考えなければいけないので、当然障害者であればその中で生き甲斐とか自己選択とかそういったものをしっかり見いだすことが求められますし、それから職業リハビリという風な関係であればその障害者に対しての理解、それから企業への指導とか助言などといったことも求められますし、そして企業側は企業の社会的な責務としてそういった方々を受け入れるというような意識を持って初めて、職業生活の維持というのができるわけです。

ところが今一番問題になってくるのは、もしかするとこの企業側の受け入れの問題というのが出てくると思うんですね。制度的にいろんなものを一生懸命、今できてきてはいるんですけれども、まだ先ほどの図のように点線であってまだ実線でない部分というのが多いと。じゃあ実線になった時に、最終的にそれが社会それから企業という所にうまく結びつけられるかというと、最終的な受け皿がノーと言ってしまえばもうそこで終わってしまうわけです。ですからやはりこういった問題を考える上では、企業側がどうやってその受け皿を作っていくかというところもポイントになってくると思います。

実際に障害者を雇用するメリットが企業側に無ければやはりそれは難しいだろうということで、基本的にいろんな法律が有るのは皆さんご存じだと思うんですね。一つが障害者の雇用率というそういった制度ですね。これは障害者に一般労働者と同じ水準において常用労働者となりうる機会を与えることを基準として設定したものです。通常、民間企業であれば1.8%、いわゆる国とか地方公共団体であれば2%なり2.1%の障害者を雇用しなきゃいけないというのがあって、それを遵守しないことによって違約金とかそういったのを払っている企業もけっこうあるんじゃないかと思いますが。じゃあ今現在どれぐらい障害者が雇用されているんだろうかということになると、一般企業1.8%雇わなきゃいけないのですけれども、達成している企業というのはまだ50%以下なんですね。43.8%。しかも障害の分類といったらこうやって見ていただくと分かるんですけれども、ほとんどが身体障害の方なんですね。知的障害とか精神障害の方を雇用するような場というのはほんとに少ない。割合的にも少ないですし、たとえば高次脳機能障害なんていったら精神障害の方と分類されるかもしれないとかって、そういう風に考えるとまだまだ厳しい状態がある。もちろん身体障害であっても1.8%とか2.1%とかというその数字すら超えてない企業がほとんどですね。国の機関だけ100パーセント超えていますけど、それ以外は80%か90%ありますけれど、50%前後というところが今の状況なんですね。

障害者の住みよい社会を作るために

ということで、そういった意味で障害者の住みよい社会を作るためにはやはり、当事者それから家族とか職場とかそれから地域社会に対していろんなアプローチをしていかなきゃやっぱり難しいのかなと。リハ訓練の援助をしながら家族には身体とか精神のサポートをして、さらに企業側を含めて理解の促しやそれに対する支援も必要ですし、社会的には啓発活動をしていかなければやはりこの問題というのは解決しないだろうということになります。地域支援の阻害因子としてどうしても、障害者を今まで排除してきた歴史というのがあります。正直言って堂々と胸を張って町を歩けるような状況は作られなければいけないのに、まだまだやはり理解不足から偏見になっている部分もあるかもしれない。学校教育もそうですよね、最近はやっと普通学校へ行くという事を権利意識として、障害を持った方も大きな声で言えるようになってきましたけど、昔はとにかくそういった所にさらしたくないとかという風な、その中でほんとに健常者と障害者と完全に別れて教育を受けてきたという背景があると、逆に大人になってから顔を合わせてもやはりそういった意味での偏見がどうしても出てしまう。

そして、自分が障害が有るという事をどれぐらいオープンにできるかということになれば、今度は個人情報保護という新たな問題が最近出てきて、実際にその情報を共有する事が制限されてしまうんです。この方はどれぐらいの障害が有ってどういった事には手を出さなきゃいけない、どういった事は自分でできるのかという情報がもし共有できていれば、たとえば犯罪とか災害弱者と言われるような方々を生まなくて済むかもしれない。でも実際には、たとえば私なんかでも自分の近隣の地域にそういった方がどれぐらい住んでいていざとなった時にどういった方に手を出せば良いのかというのは全く情報が無いんですね。そうすると気持ちとして自分にゆとりが有る時にそういった方々に手を出したいと思ってもできない状況がある。たとえば、犯罪というのは何かというと、知的な問題が有ったりとか判断力が落ちてる方が、いわゆる悪徳商法とかそういった物に引っかからないように周りがしっかり見てあげるという、特に高齢者の一人暮らしの方の最近振り込み詐欺とかいろんなものがありますけど、そういったのも実際にはもしかすると地域の人がうまく関わることでこういったのも防げるかもしれないのに、それが分からない状態でずっときていると。

そしてもう一つはやはり、我々もそうですけれども、ゆとりの無い社会になりつつあるのかなと。

個人主義の悪い意味での個人主義の反乱というのがどうも出ているような中で、この社会というものが少しそういった意味ではブレーキになってしまっている部分もあるのかもしれない。自分やその家族が障害者になった時に、住みやすい社会を作るためにはそうなる前からやはりその準備というのが必要だと思うんですね。でもなかなかそれって我々やっているかというとやってないんですね。障害の考え方とらえ方というのはもう歴史的にいろんな意味で変化しています。昔は定義自身も、ほんとは機能障害あるいは疾病のため個人が制限されるということを障害として考えてたんですけども、今は機能障害である個人は生活活動の遂行に必要な機能を果たすために便宜が求められるという風なところでとらえようとしてると。そうすると戦略的には、個人に限定して欠損しているものを補正するという昔の考え方から、バリアを取り除いて便宜と標準デザイン、ユニバーサルデザインと言われますね、を通じてアクセスを想像し安寧と健康を促進させるとかですね、そういった障害者に対する方法もリハビリテーションサービスの提供ということではなくて、支援の提供という発想。介入する方々も専門職だけではなくてピア、仲間がうまく入っていくということも重要ですし、その障害者の役割というのもただ単に介入の対象であるとか患者とか受給者とかという風な見方から、消費者あるいは顧客、機能ある仲間という風なとらえ方をしましょうというような形でですね、これはアメリカの国立障害リハビリテーション研究所から出ているとらえ方、パラダイムの変化ですけれども、そういった意味ではやはりその単一の障害ということだけで見ていくのではなくて、社会全体としてどういう風な人として見ていくか、機能障害の程度に基づく給付金受給者の適格者という風な資格ではなくて、市民権と見なされる便宜的手段を受給できる適格者というような見方というのは、これからほんとに必要なんだなという風に考えています。

障害をもちながら社会生活をおくるには

最後ですけれども、障害を持ちながら社会生活を送るにはどういった事が必要なのかと。個人として自己の可能性をやっぱり見いだしていく、生き甲斐の再獲得をしないといけないと思います。家族としてはどういう風な事が必要なのか。良き理解者として支えていくことが大事です。地域としては、やはり障害を抱える問題に応じて使える制度とかサービス等の情報とそれぞれの連携、ネットワークをしっかり構築することが求められます。そして社会としては、障害者に対する理解を高めて、共に生きていく中でお互い支え合える今度バリアフリー化ができれば良いんじゃないかという風に考えています。

具体的な策というのがほんとにできてくれば良いんですけれども、地域でやはりリハビリテーションをする、もしくはそういった方々と一緒に生活するというためには、相互の理解とともに、それが非常に何かをしてあげるという風な関係ではなくて、平等の関係の中でお互いが支え合えるような状況を作ってくということが大事だと思います。

私自身もそうですけども、いつ障害を持つかも分からないわけですから、そういった意味で自分がもし万が一障害を持った時でも住みやすい社会を作るということが、健全である私たちの責務ではないかという風に考えております。

ご静聴ありがとうございました。

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